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05 September

発見

7月に「父のこと」という記事を書きました。今回の記事はその“続き”とか”その後”という感じです。

今、わたしは父の写真を一枚も持っていません。写真だけでなく、父からもらった物だとか父に関係する何かというのも、分かる範囲では手元にひとつもありません。最近、あるきっかけからそのことが明らかになりました。
「ひとつもないなんて思わなかった」
「これまで全く気づかなかった」
というのはないのですが、これまでに「ひとつもない」ということを特に意識したことはなかったし、だから当然それについて考えたこともありませんでした。そういう意味では“知らなかったわけではないはずだけど、よく分かってはいなかった”のだと思います。それが急にはっきりと見えてよく分かったような感じがして、「本当に何もないんだなぁ」ということにわたしはけっこう驚きました。

ずっと以前には自分のアルバムというものがあって、その中には
子供の頃のわたしや妹と一緒に父が写っている写真というのも多少はあったと思います。
でも、あるときにわたしは自分が写っている写真を全て処分しているので、
父と一緒に写っている写真もそのときに捨ててしまっていることになります。
もしかしたら……母なら父が写っている何かしらの写真をまだ持っているかもしれませんが、
(たとえば、妹のアルバムを持っている など)
母とはあまり連絡を取らないようにしている今なので、
写真を持っているかどうか、見せてもらえるかどうか、といったことを尋ねるのは
ちょっと難しい。というか避けたい。
まして、“父のこと”を母に対して言い出すなど……。

ちなみに、写真を処分したのはあくまでも「自分の写真を処分したかったから」です。
それがイコール「父の写真も全てなくなる」ことだったのには、
最近まで全く気づきませんでした。
父の写真が一枚もないことは今の自分としてなんとなく分かっていたけれど、
「自分の写真を全て処分する」ことで起こる本来の目的にはないこと
=「父の写真も全てなくなる」こと にまでは当時の自分としては全く気づかなかったし、
今の自分としてもその結びつきは考えたことがありませんでした。

“父からもらった物や父に関係する何か”についても、写真と似たようなところがあります。
以前は“元々は父のものだったのをわたしがもらった本”が数十冊ありました。
だけど、うつで調子が悪かった頃、わたしは
読書を楽しむ気持ちが薄れていき、また、思うように活字が読めなくなってしまって、
いつまた読みたい気持ちになれるのか、それ以前に
また活字を読めるようになるのかどうかも分からない、という状態(気持ち)が続き、
開くことなく本棚にただ並んで、埃をかぶっていくだけの本を見るのが嫌になり、
父からもらったものを含め、持っていた本のほとんどを処分しました。
そのときは考えもしませんでしたが、
これも結果的に「父からもらった物が何もなくなる」ことだったんですよね。
自分が持っている(持っていた)“父に関係するもの”、
処分したその数十冊の本以外には、今、何も思い当たりません。

こうしたことが明らかになったのは……先月のゲシュタルトのワークショップで
早速“父に対する自分の気持ち”というところのワークをしてきたのですが、
その中でのファシリテーターのある提案がきっかけでした。
2日間のワークショップで、そのときのわたしのワークは順番と時間の関係でたまたま
初日に少し(約15分)+ 続きを2日目に(約1時間半か……もう少しかかったかも?)
という風になったのですが、初日のワークの終わりのほうでファシリテーターから
「宿題を出してもいいですか?」
「お父さんの写真があれば、今夜見てきてほしいんです」
と言われたのです。
そこまでのワークの流れがあり、そこから出された「宿題」「提案」です。その場では
「父の写真、一枚も持っていないんです」
と伝えて、結局宿題はなしになっているのですが、
その日、帰宅してから「それでも」と思ってクローゼットの中を探してみたのでした。
5月に部屋全体の片づけをしているので、「父の写真は一枚もない」というのは
ほぼ間違いないこととして分かっていました。けれど、
「それでも」と思った自分、
「写真がないなら、他の物でも何か……ないかなぁ」と探した自分、
「あるわけないよなぁ」と思いながらも小学校、中学校の卒業アルバムまで開いた自分、
(先ほど「写真は全て処分した」と書きましたが、卒業アルバムは紙が分厚いために「破って捨てる」というわけにもいかず、処分できないまま持っていました)
そういった自分がそのときいました。そして、
「あ、『お父さん関連のものを探す』のは嫌じゃないんだなぁ。ためらいや抵抗はないようだ」
ということに気づき、そんな自分に対しての不思議な気持ちも感じました。

宿題そのものはできなかったけれど、「宿題」をきっかけに出会い、感じた
自分の「不思議な気持ち」と「驚き」。
そして、それらはまた、2日目のワークにもつながって……。


先月のワークの中身にはここでは触れませんが、
ワークをして、そこで大事なものをしっかり得てくることができました。
“父に対する自分の気持ち”はまだ分からないままではあるのですが、
「分かる」に向かってほんのちょっとだけ、本当にちょっとかもしれないけれど
近づけたんじゃないか……そう思えるようなワークになりました。
トライしてみて良かった。
父のこと、これからも続けて取り組んでいきます。


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14 July

父のこと

 
誕生日ネタが続きますが……

今日7月14日は父の誕生日。
確か昭和22年生まれだったと思うので、だとすると
父は今年69歳になったことになります。
来年は70歳……?なんだかピンときません。
いつの間にか年を取ったように思えて、変な感じがするばかりで。

父とはもう10年近く会ってもいないし話してもいません。
自分から連絡してくるような人ではないし、
こちらから連絡するといいのかもしれませんが、特にそうしたい気持ちも起こらなくて。
「そうすべきだ」という気持ちはもっとないし。

「父が嫌い」「だから連絡したくない」というわけではありません。
というか……父に対しての自分の気持ちが、わたし、よく分からないんです。
父のこと、わたしはどう思っているんだろう。
思い浮かぶのは
「母は父のことが大嫌いだった」
ということだけ。
父に対する自分自身の気持ちは
一体どこへ置いてきてしまったのか……どこへ閉じ込めてしまっているのか。

ただ、そんな状態の自分ではあっても、毎年7月14日が来れば
「ああ……(そうか)」と思います。
そして、こんな風に父のことを考え出すと、父に対しての気持ちは分からなくても
息苦しさは感じるわたしでもあります。

“父に対する自分の気持ち”というところ、
前に一度ワークしたことがあるのですが、そのときは何も動きませんでした。
そろそろまたトライしてみようか……。
今度も「今はまだ動かない」ということの確認になっちゃうのかもしれないけれど、
何かは前と違うこともあるかもしれない。

いつかはきっと、自分が父のことをどう思っているのか……
それがどんな気持ちであったとしても、自分の気持ちとして取り戻し、
自分の気持ちとしてしっかり感じたいなぁと思います。


関連記事:
父の話。|たとえばこんな不器用な雲。

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21 March

※「◯」がこの記事のタイトルです (・・。)ゞ

とても大切なものを見つけました。そして、今思えば、少し前からちょっとずつ、ゆっくりと、それを育てています。

それはまだ小さかったり、弱かったり、不安定さもあるけれど、わたしの中心にあるもののような、核のような、そんな感じがしています。
それでいて、わたしを包み込むことのできるものでもあります。

それを感じている時間や世界というのは、わたしにとって本当に安心感があるんだな、ということに、先日ワーク(ゲシュタルトセラピー)の中で確かに気づきました。「自分の居場所」という言い方も当てはまるかもしれません。
そこにいるとき、わたしはただただ“自分”でいることができます。何かに対して、誰かに対して、自分自身に対しての「良い」「悪い」は何もなくなっています。ふわふわの毛布にくるまれているみたいに、あたたかくて、心地良かったりもします。心が震えて、涙がこぼれてきます。自分の中に大きな力がわいてきます。

わたしにはこんな風に、自分の中に安心できる場所があることを知りました。

目を閉じると、それまで(目を開けている間)首のあたりに感じていた固さ、疲れの感覚が、
背中のほうに下りてきて、広がって、あたたかさ、エネルギーとして循環し始めました。
最近うまくできなくなっていた呼吸も、このときは自然にできています。
目を閉じたままでいるうちは、“大切なもの”をずっと感じていられそうです。

再び目を開けると、さっきまでは循環するあたたかさ、エネルギーだったものが
きゅーっと首に集まって、固まっていきました。
目を開けた瞬間から、もう疲れ始めています。

自分のからだ(筋肉の緊張)のパターンもひとつ見つけました。

「その安心の場所にいること、入ることは、withdrawal といって、大切にしていいんだよ」
と言われました。
withdrawal は「引きこもり」のことだけど、

「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」(厚生労働省)

のことではなく(意味合いとして重なる部分もあるかとは思うけど)。
たとえば、人と接するのがあまり得意ではなくて、
人の中ではだいぶ自分を緊張させ、疲れさせてしまうわたしだけど、帰ってきたら
自分の安心の場所に入る、withdrawal に充分時間を取る……それって大事なことだよね、と。
そうやって、何かのたびに毎回だって「戻って」きて、自分を確かめたり、取り戻したり、
新しいエネルギーを生み出したりもしていくのかなぁ。
withdrawal を大切にすればこそ、それ以外の時間が
より楽しかったり、頑張れたり、キラキラできたり、
自分にとって本当に良いものにしていけるということかもしれない。
だけど、その自分は無理をしているんじゃなくて、ちゃんと「自分」でありながら。

“大切なもの”を「育てている」「まだ小さかったり、弱かったり、不安定さもある」
と書きましたが、「育つ」というのが果たして
大きくなることや強くなること、安定することなのかどうかは分かりません。
ただ、これが育っていったときに、これの持つエネルギーがわたしの
自信=ありのままの自分、等身大の自分を信じることのできる力
にもなっていくのかもしれない……そんな予感がしています。

Contact with and withdrawal from the environment are the most important functions of the total personality.   Fritz Perls

環境に触れること、そして環境から引きこもることはパーソナリティ全体のなかで最も重要な機能である。  フリッツ・パールズ



        
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