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16 October

重心

セラピーや心理学の勉強を始めて4年目に入りました。わたしの場合、
「セラピストになりたくて」というよりは、自分のために勉強を続けてきています。

自分のためではあるけれど、勉強を続けていって、その延長線上にもし
「自然とセラピストになっていた」「いつの間にかそうなっていた」
という未来があるなら……そういうのだったらいいなぁ、と思います。
セラピストになることを目標、目的とするのではなく、ね。
目標、目的とするとしたら、恐らくそのわたしは簡単に“間違えて”しまうような気がします。
本当に大切なことが全然見えなくなってしまいそう。
人に認められたい、とか、人より優位に立ちたい、とか、
そういった気持ちが自分の中にあること、その気持ちはけっこう大きいであろうこと、
自分でよく知ってるしなぁ……。

ちなみに、「セラピストとして」とか「誰かのお手伝いをする」ということについては、
勉強や実践など、5年くらいやると少し何かが変わってくる、
できるようになること、分かるようになることが少し出てくる、
そして10年やるとだいぶ変わる……そんなことを何度か耳にしています。

ところで、わたしには勉強を始めたきっかけであり、
また、勉強を続けてきた理由の1つでもあること(けっこう大きな理由)
というのがあったのですが、それが最近なくなりました。
そして、決してそのせいにするわけではないのですが、そういう意味では
「勉強はこのあたりでもうやめてしまってもいいのかもしれないな」
ということを、案外本当に、冷静にそう思っていたりもします。
もちろん、この勉強はとてもおもしろいし、好きです。
だからこそ続いているんだろうし。驚きや感動も多いです。けれど、
「(今のペースは、あるいはわたしには) 少し無理があるかもしれない」
と思う気持ちがあったり、それから、
この勉強はここまでやれば良いというのがあるわけでもなければ、
この通りに進んでいけばいいという決まったルートや順序があるわけでもなく、
先が全く見えないことへの不安や焦りといった気持ちがあるのも事実。
“自分のペースで”とか“自分なりの道を”ということの難しさを常に感じています。
それに加えて、「自分のいろんなことに気づけるようになる (なってしまう)」というのは
良いことばかりとは限らず、苦しい思いをすることも少なくありません。
そういったいろんな気持ちがあって、
ひょっとしたら、逃げたい気持ちとか怠けたい気持ちなんかも含めていろんな気持ちがあって、
それでもこのまま進んでいく、勉強を続けていく、というのも悪くはないし、
けれど、自分にとって何が本当に良いことなのか、どうすることが一番幸せなのか、
そういったことを考えたときに、全く別の日常を選択するのだって
同じように悪くないのかも……と、ある意味当たり前にそう思います。

これまでにもこんな風に考えることがなかったわけではありません。
でも、「理由」がなくなったことで、なんていうか、自分の中のこんな風なことが
あり方を変えたというか……考えることは同じであっても、“感じ”が変わったというか。

もし、勉強をやめたら、わたしは何をするだろう?何がしたいだろう?
勉強のおかげでたいぶまた活字が読めるようになったから、
いろんな本を読んでみたくなるのかなぁ。
ゆっくり散歩に出かけたり、カフェでのんびりとコーヒーを味わったり、
本当にたまにだけど描くようになった絵をもうちょっと描いてみたり、
全然できないしやろうともしない料理だけど、練習を始めてみたりとかも……?
そういう日常だっていいのかもしれない。案外本当に幸せかもしれない。

「自分と向き合わなくてはならない」「きちんと向き合うべきだ」
という考えも、わたしは特に持っていないつもりです。
自分はそうしたいからそうしてきただけで、「そうしなくてはならない」とは思っていない。
このしんどい作業は義務でやるようなことではないと思っています。

自分と向き合うこと、自分のこころを探索することをしている人は、本当に
「頑張っているね」「すごいね」
と思います。自分にもそう言っておこうかな(笑)。そして
……わたしがこんなこと言うのはちょっとふつりあいなようで気がひけちゃうけど、
自分と向き合うことで人生が豊かになる、そういう部分があることは確かに体感しています。
ただ、だからといって一番大事なことが「自分と向き合うこと」になってしまうとしたら、
それはどうだろう、それって本当にそうなのかなぁ、って思う。
わたしにとっては、一番大事なことは「自分と向き合うこと」ではなくて、
勉強を続けることややりとげること、その結果、何者かになることでもなくて、
たとえば、日々を穏やかに過ごせることだったり、
こころのあり方として、広く高く大きくいられることだったり、
一瞬一瞬、自分のために (より良い)“選択”をしっかりできることであったり……。
そのために、もし、勉強をやめるとか一時的に手放すとかいったことのほうが良さそうであれば、
そういう選択は当然アリというか、いつでもそういう選択もできる自分でいたいなぁと思います。

勉強を続けるかどうかを迷いながらも、続けているうちは一生懸命やりたいと思います。
この秋になって、なんとなくだけど、転機らしきものを迎えているような気も。
これまでとはちょっと違った勉強に興味を持ち始めていたり、取り組んでいたりします。
と言っても、わたしの中の方向性は変わってなくて、
これまでのこととのつながり、関連を思っての“ちょっと違った勉強”です。

今回の記事は少しごちゃごちゃしてしまったかもしれませんが……

もうやめたっていいと思っている    この気持ち、わたしにはけっこう大事だったり、
もしかしたら、この感じがかえってちょうどいい、そういうこともあるのかもしれませんね。



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26 September


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ただここに自分が在る そんな「今」は
こんなにも充たされていて

さて わたし
ここからどうやって
「普段」に足を伸ばすといいだろう?

つないで
自由に行き来したいんだ
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05 September

発見

7月に「父のこと」という記事を書きました。今回の記事はその“続き”とか”その後”という感じです。

今、わたしは父の写真を一枚も持っていません。写真だけでなく、父からもらった物だとか父に関係する何かというのも、分かる範囲では手元にひとつもありません。最近、あるきっかけからそのことが明らかになりました。
「ひとつもないなんて思わなかった」
「これまで全く気づかなかった」
というのはないのですが、これまでに「ひとつもない」ということを特に意識したことはなかったし、だから当然それについて考えたこともありませんでした。そういう意味では“知らなかったわけではないはずだけど、よく分かってはいなかった”のだと思います。それが急にはっきりと見えてよく分かったような感じがして、「本当に何もないんだなぁ」ということにわたしはけっこう驚きました。

ずっと以前には自分のアルバムというものがあって、その中には
子供の頃のわたしや妹と一緒に父が写っている写真というのも多少はあったと思います。
でも、あるときにわたしは自分が写っている写真を全て処分しているので、
父と一緒に写っている写真もそのときに捨ててしまっていることになります。
もしかしたら……母なら父が写っている何かしらの写真をまだ持っているかもしれませんが、
(たとえば、妹のアルバムを持っている など)
母とはあまり連絡を取らないようにしている今なので、
写真を持っているかどうか、見せてもらえるかどうか、といったことを尋ねるのは
ちょっと難しい。というか避けたい。
まして、“父のこと”を母に対して言い出すなど……。

ちなみに、写真を処分したのはあくまでも「自分の写真を処分したかったから」です。
それがイコール「父の写真も全てなくなる」ことだったのには、
最近まで全く気づきませんでした。
父の写真が一枚もないことは今の自分としてなんとなく分かっていたけれど、
「自分の写真を全て処分する」ことで起こる本来の目的にはないこと
=「父の写真も全てなくなる」こと にまでは当時の自分としては全く気づかなかったし、
今の自分としてもその結びつきは考えたことがありませんでした。

“父からもらった物や父に関係する何か”についても、写真と似たようなところがあります。
以前は“元々は父のものだったのをわたしがもらった本”が数十冊ありました。
だけど、うつで調子が悪かった頃、わたしは
読書を楽しむ気持ちが薄れていき、また、思うように活字が読めなくなってしまって、
いつまた読みたい気持ちになれるのか、それ以前に
また活字を読めるようになるのかどうかも分からない、という状態(気持ち)が続き、
開くことなく本棚にただ並んで、埃をかぶっていくだけの本を見るのが嫌になり、
父からもらったものを含め、持っていた本のほとんどを処分しました。
そのときは考えもしませんでしたが、
これも結果的に「父からもらった物が何もなくなる」ことだったんですよね。
自分が持っている(持っていた)“父に関係するもの”、
処分したその数十冊の本以外には、今、何も思い当たりません。

こうしたことが明らかになったのは……先月のゲシュタルトのワークショップで
早速“父に対する自分の気持ち”というところのワークをしてきたのですが、
その中でのファシリテーターのある提案がきっかけでした。
2日間のワークショップで、そのときのわたしのワークは順番と時間の関係でたまたま
初日に少し(約15分)+ 続きを2日目に(約1時間半か……もう少しかかったかも?)
という風になったのですが、初日のワークの終わりのほうでファシリテーターから
「宿題を出してもいいですか?」
「お父さんの写真があれば、今夜見てきてほしいんです」
と言われたのです。
そこまでのワークの流れがあり、そこから出された「宿題」「提案」です。その場では
「父の写真、一枚も持っていないんです」
と伝えて、結局宿題はなしになっているのですが、
その日、帰宅してから「それでも」と思ってクローゼットの中を探してみたのでした。
5月に部屋全体の片づけをしているので、「父の写真は一枚もない」というのは
ほぼ間違いないこととして分かっていました。けれど、
「それでも」と思った自分、
「写真がないなら、他の物でも何か……ないかなぁ」と探した自分、
「あるわけないよなぁ」と思いながらも小学校、中学校の卒業アルバムまで開いた自分、
(先ほど「写真は全て処分した」と書きましたが、卒業アルバムは紙が分厚いために「破って捨てる」というわけにもいかず、処分できないまま持っていました)
そういった自分がそのときいました。そして、
「あ、『お父さん関連のものを探す』のは嫌じゃないんだなぁ。ためらいや抵抗はないようだ」
ということに気づき、そんな自分に対しての不思議な気持ちも感じました。

宿題そのものはできなかったけれど、「宿題」をきっかけに出会い、感じた
自分の「不思議な気持ち」と「驚き」。
そして、それらはまた、2日目のワークにもつながって……。


先月のワークの中身にはここでは触れませんが、
ワークをして、そこで大事なものをしっかり得てくることができました。
“父に対する自分の気持ち”はまだ分からないままではあるのですが、
「分かる」に向かってほんのちょっとだけ、本当にちょっとかもしれないけれど
近づけたんじゃないか……そう思えるようなワークになりました。
トライしてみて良かった。
父のこと、これからも続けて取り組んでいきます。